鉄扉

 それは、酷く薄汚れたドアだった。
 飾り気も何もない、心が凍えるかと思うほど冷たい鉄扉。
 地下の澱んだ空気の中で、重厚な雰囲気を漂わせている。
 ドアノブをそっと握り締めると、手のひらに氷を掴んだような感触が広がった。
 全ての始まりはここから。
 この肘まで冷え切ってしまいそうな感触と、耳が痛くなりそうなほどの静寂があたしを別の世界へといざなってくれる。
 終わることのない夢へと導いてくれる。

 今も昔も、悪夢はこのドアの向こうに広がっている……。




「お嬢様、そちらに行ってはなりません」
 背伸びして手を伸ばした麻由を、甲高い少女の声が制止した。
 濃厚な闇の支配する廊下の奥から、パタパタと軽い靴音が近付いてくる。
 麻由はドアノブに手を触れさせた体勢のままで、きょとんとした瞳を暗闇の中に向けた。
「もう、こんなところにいらしたんですね。あれほど地下に降りてはいけませんと言っておいたでしょう?」
 同じ屋根の下に住む佐伯ありさが、やや慌てた様子で走り寄ってくる。だいぶ探し回ったのだろう、額には大粒の汗が滲んでいた。
「だってこっち知らないのにぃ」
「知らなくてもダメです。こんなところにいると、お化けが出て怖い目にあわされてしまいますよ」
「ふ〜んだ。お化けなんか怖くないもん」
 ぷうっ、と頬を膨らませて麻由がドアから離れる。ありさの目を盗んで地下へ降りたはいいものの、同じようなドアが並んでいるだけで途方に暮れていたところだったのだ。
 とりあえず手近な部屋に入ってみようとしたが、今の麻由では身長が足らない。背伸びをして何とかドアノブを掴むことはできたものの、そこでありさに見つかってしまったというわけだった。
 今日も佐伯邸の地下探索は失敗。麻由は落胆した様子で溜息をつくと、未練がましそうに重厚なドアを見上げた。
「ねぇ、この先には何があるの?」
「何もありませんよ。ただ、部屋があるだけです」
「それだけ?」
「そう、それだけ。ここは誰も掃除もしてませんから、だいぶ汚れていると思いますよ」
「ふ〜ん」
 ありさの言葉に、麻由はつまらなそうな声を返した。
 ただの部屋だと言われては、それ以上に興味が湧くはずもない。もちろん中を見てみたいという好奇心は残っているが、ここで無理をして覗こうと思うほどではなかった。
「さあ、勉強の時間ですよ。上に戻りましょう」
「え〜っ、勉強きら〜い」
「ダメです。旦那様から言い付かっているんですから」
「う〜っ、う〜〜っ、う〜〜〜っ」
 麻由は低い声で何度も唸ったが、目をつり上げたありさに手をつかまれては逃げ出しようがない。いつものようにずるずると引きずられながら、地下の廊下を後にした。
 平穏と安らぎ――その二つがまだ佐伯邸にあった頃、ありさはまだ人間であり、麻由の胸にもその残虐な炎は塵ほども宿ってはいなかった。
 父と母は滅多に家に寄り付かなかったが、あまり寂しさを感じたことはない。遠くに遊びに行くことが禁止されている以外、毎日が麻由にとっては冒険だった。
 当面の目的は、佐伯邸の完全攻略。まだどこに何の部屋があるのか理解しておらず、歩けば歩くほど新しい景色が見えてくる。時には屋根の上にまでのぼり、ありさを卒倒させたこともあった。
 例えるなら白――。
 人間の欲望や穢れなどを一切知らない、まるで雪のように白い純粋無垢な心が麻由にはあった。それは麻由くらいの年頃であればごく自然なことであり、吸血鬼という種族であることから考えれば極めて珍しいことだった。
 そもそも吸血鬼は根本的な考え方が違う。彼らにとって人間は獲物であり、血を得るための対象でしかないのだ。佐伯邸のように吸血鬼と人間が一緒に住むなど、本来あり得るはずのない形だった。
「あれ、麻奈。ここにいたんだ」
 ありさとの勉強を終えて程なく、麻由は大広間で本を読む妹の姿を見つけた。テーブルの上には、何が面白いのかさっぱり分からない分厚い専門書の類が山のように積まれている。
 成長とともに活発となった麻由とは対照的に、ここ最近の麻奈は本ばかり読むようになっていた。
「またそんなの読んでるんだ。ねぇ、一緒に外行こーよー」
「もう少し待って。もう少しで読み終わるから」
 麻奈の答えに、麻由は小さく嘆息する。この「もう少し」は、時間にして三時間から四時間を要するのだ。
 全く同じ顔をした双子でありながら、全く逆の性格をしているのがこの姉妹の特徴だった。
「つまんないのー」
 麻由は拗ねたような声で言うと、大広間の窓から外の景色を眺めた。
 特に何もないただの青の世界が広がっている。だが、実のところ麻由はその青い空が好きなのだった。佐伯邸が鬱蒼とした森に囲まれているせいか、空だけが開かれた場所のように感じられてならない。一度でいいから鳥のような翼を持って、森の向こう側を見てみたいという淡い希望が麻由の胸にはあった。
「ああ、お嬢様。こちらにおいででしたか」
 暫くぼんやりとした時間を過ごしていると、大広間のドアを開けて太った初老の男が入ってきた。顔にはいつもと変わらない優しい笑みが浮かんでおり、清潔感漂うスーツに身を包んでいる。
 老人の名は佐伯正鷹、ありさの祖父であり屋敷の主たる男だった。
「あっ、おじちゃーん」
 パッと明るい笑顔を見せて、麻由は小走りに寄っていく。ありさが勉強に厳しい分、いつ如何なるときも笑顔の佐伯が麻由は大好きだった。
「今日のお勉強は済みましたかな?」
「終わったよー。ありさが怖かったけど」
「はははっ、それはいけませんな。もう少し穏やかに教えるよう言っておきましょう」
「ホント? ありがとー」
 小柄な麻由が、佐伯の太い脚に飛びつく。佐伯も慣れたもので、飛びつかれる瞬間ぐっと腰を沈めて体が揺れないように構えた。
「今日は良い報告がございましてな……そろそろ旦那様と奥様がお戻りになるようです」
「パパとママが? いつ?」
 麻由が目を輝かせて訊く。
 佐伯は困ったように笑いながら、そっと麻由の頭を撫でた。
「正確な日付まではまだ……。しかし、そう遠くはないでしょう」
「やったぁ! ねっ、麻奈、聞いた聞いた? パパとママが帰って来るって」
 本を読んでいた麻奈が、ちらりと視線だけ向けて頷く。表情には、麻由ほどではないが嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「パパとママが帰ってきたら、またご馳走作ってくれる?」
「もちろんですとも。ありさに腕を振るわせましょう。リクエストがあれば、今のうちですよ」
「ええっ? う、うーんとねぇ……」
 自分の脚にしがみ付いたまま悩む麻由に、佐伯は肩を揺らして笑った。
 夕方になると、麻由にとってまた苦痛の時間がやって来た。ありさの取り決めで、勉強は一日二回、午前と午後に分けられている。厳密には午後のほうが本番で、最近は小難しい数字の足し引きを習っていた。
「違います。この時点で計算が合っていないんですよ」
「あれ〜? あれぇ〜?」
 納得できないといった声を上げながら、麻由が両手の指を折る。右手の親指から1を数え、左手の小指で10に到達する。そこから先は指が使えないため、麻由にとっては未知の領域だった。
「ですから何度も申し上げたように、指を使っていては進歩しません。こちらのノートにきちんと書いてください」
 そう言ってありさが指差すノートには、ミミズがのたくったような黒い線が引かれている。かろうじて計算した跡が見て取れるものの、普通はただの落書きと判断されるであろう代物だった。
「こんなのできないってばぁ」
「そんなことはありません。こちらの問題はできたでしょう。それをちょっと応用すればいいんです」
 厳しいがありさの教え方は丁寧だった。分からない箇所があれば、何日かけてでもじっくり教えてくれる。このときの麻由はまだ、そのありがたさを正しく受け止めることができなかったが、そこには確かにありさの愛情が溢れていた。
 勉強の時間が終わると、麻由は再び邸内の探索を開始した。既に玄関には鍵が掛けられているため、庭にさえ出ることはできない。麻奈は相変わらず本を読み、ありさや佐伯は仕事で忙しい。必然的に麻由は暇を持て余すこととなり、興味はあの地下の扉へと向けられるのだった。
 そろりそろりと足を忍ばせながら目的の階段へと向かう。ここ数日はありさが見張っていることも多いため、地下へ降りるのも容易なことではなかった。
「誰もいない、かな?」
「お嬢様、ここで何をしてらっしゃるんですか?」
 突然後ろから話しかけられ、麻由は飛び上がらんばかりに驚いた。速まる心臓の鼓動を抑えながら、ゆっくりと背後を振り返る。そこには当然のように、腰に手を当てたありさが仁王立ちしていた。
「さ、散歩」
「散歩は外でするものです」
「ト、トイレ」
「方向が逆です」
「えっと……お腹が……」
「空いたのなら私がお部屋に持って行きます」
「……部屋に戻る」
「結構です」
 こういうときは諦めが肝心だ。無理にありさの監視を潜り抜けようとするより、日を改めたほうが賢明だった。
「ありさ」
 部屋に戻っていた麻由が廊下の角を曲がろうとしたとき、背後から佐伯の声が聞こえてきた。振り返ると廊下の突き当たりのところで、ありさと佐伯が向かい合って立っている。
 会話はかろうじて麻由の耳にも届いた。
「明日、旦那様と奥様がお戻りになる」
「あ、明日ですか?」
「まあ、夜遅くにはなるだろうがな。足りないものがあれば明日のうちに用意しておけ」
「分かりました」
 そうやってもう二、三言話して、ありさと佐伯は廊下の奥へと消えていった。
 麻由は廊下の角に隠れながら、頭の中で二人の会話を整理していた。両親が帰ってくることはあらかじめ聞いていたので、そう驚くことではない。明日帰ってくるというのは素直に嬉しいが、それよりもありさが忙しくなるということのほうが麻由にとっては重要だった。
 佐伯の話からして、父と母が帰ってくるのは夜遅くになるらしい。それまで、ありさはかなりの多忙になることが予想される。とても麻由に構っている暇はないだろう。
 ――地下室に忍び込むのは明日しかない!
 直感的に、麻由はそのことを察した。明日がもっとも潜入が楽になる日であり、それを逃せば次に両親が帰ってくるまでチャンスは望めないということを、漠然とではあるが感じ取っていた。
 あの鉄扉の先にあるものがただの部屋だったとしても、麻由の好奇心はもはや自制できないほどに走り始めていた。
「よーし、明日は絶対部屋に入ってやるんだから」
 麻由は小さな拳をぐっと固めると、スキップしながら自分の部屋へと戻って行った。
 翌日の午前中は、わざと庭で遊ぶことにした。ありさの目につきやすいような場所を走り回り、あえて森のほうに走ることで注意を引きつける。
「お嬢様、森のほうに行ってはなりません」
「分かってる〜! そこの入り口のところだけだよ〜」
 庭の花に水をやっていたありさに、麻由はぶんぶんと大きく手を振って答えた。




 勉強の時間になると自分から部屋に戻り、いつもより真剣に計算問題に取り組んだ。そのペースはいつもの倍に近く、当然ありさは目を丸くして驚いていた。
「あたし、なんか疲れちゃったから部屋で寝るね」
「朝はよくお遊びでしたし、勉強もいつもより身が入っていましたからね」
 くすくすと笑うありさを背に、麻由は目を擦りながら大広間を出た。当然、全て演技だ。部屋に戻るなりじっと窓に張り付き、片時も目を離さず外の様子を窺う。やがて玄関からありさが出てきたとき、麻由は小躍りしそうなくらい喜んだ。
 ありさが臨時の買出しに行くのは間違いなかった。花柄の財布を胸に抱いて、いそいそと森のほうに駆けて行く。こうなれば、おそらく一時間以上は戻ってこないだろう。
 麻由は窓の脇からありさの姿が完全に見えなくなるのを確認して、にんまりと口元を緩めた。
 これで、屋敷には自分と麻奈と佐伯しかいないことになる。麻奈は相変わらず大広間で本を読んでいるだろうから、特に何かを気にする必要はない。問題は佐伯のほうで、今回だけはあまり見つかりたくなかった。
 暫く部屋で考えた末、麻由はまず佐伯がどこにいるのかを確認することにした。万が一にも、地下へと降りるところを見られたりしないようにするためだ。邸内をうろうろと歩き回りながら、麻由は佐伯の姿を求めた。
 まず向かったのは、佐伯の自室だった。彼は一日の大半をそこで過ごし、千砂倉の街をより良くするための仕事をしているらしい。あまり興味が湧かなかったので麻由は詳しい内容を聞いたことがなかったが、街のために粉骨砕身する佐伯を心の中で尊敬していた。
 そろりそろりと足音を忍ばせながら、二階の廊下の西側にある佐伯の部屋へと近付く。辺りはしんと静まり返り、生唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。一歩、二歩、三歩と足を動かすたびに、麻由の全身が硬くなっていく。住み慣れた屋敷の廊下を、こんなにも緊張して歩くのは初めての経験で、それがある意味新鮮で楽しかった。
 やがて視界に佐伯の部屋が見え始めてきた。オーク材のドアはぴったりと閉じられ、遠くからではいるのかいないのか全く分からない。
 麻由は中が見えるはずもないのに目を細め、暫くの間じっと部屋の様子を窺った。
「いないのかな?」
 漠然とした感覚でしかなかったが、部屋の中からは人間はおろか鼠一匹の気配さえ感じられない。麻由は靴底を擦るようにして部屋の前まで来ると、赤茶けたドアに耳を当てて室内を探ろうとした。
 胸の鼓動が次第にその大きさを増していく。額から汗が滲み出てくる反面、喉はカラカラに乾いていた。見つかったからといってどうなるものでもないが、麻由は不思議とスリルのあるこの瞬間を堪能していた。
 時間にして五分ほどは粘っただろうか、やはり部屋の中から佐伯の気配は感じられなかった。麻由は意を決してドアノブをひねってみたが、しっかりと鍵が掛けられており中に入ることはできない。佐伯がどこか別の場所にいるのは間違いないようだった。
 麻由はひとまず部屋から離れると、佐伯がどこに行ったのかを考えた。屋敷の外にいるのならいいが、中にいれば地下に降りるところ、もしくは上がってきたところを見られる可能性がある。見つかったからといって怒る佐伯ではないが、せっかくなら誰にも知られずに事を成し遂げたかった。
 この時点で、麻由は一種のゲームを始めているといっても過言ではなかった。
 佐伯を探すついでに、麻奈の居場所を確かめるため大広間へと向かった。おそらくここにいるだろうと高を括っていたのだが、意外にも部屋を覗いてみると誰もいない。ドアの隙間から首を差し込んで左右を確認してみたが、やはり麻奈らしい姿はどこにもなかった。
 珍しいこともあるものだと、腕を組んで麻奈の居場所を考える。すぐに自室にいるのではないかと思い至ったが、実際に行ってみるとそこにも麻奈はいなかった。
「あれぇ、どこ行っちゃったんだろ」
 眉根にしわを寄せて、低い声で犬のような唸り声を漏らす。自室と大広間以外で、果たして麻奈がどこに行くだろうか。あまり庭を歩いて花を眺めるような性格ではないので、邸内にいる可能性のほうが高いはずだ。
 適当にうろついていると、廊下の先に大量の本を抱えた麻奈を見つけることができた。かなり重いのだろう、体が左右にふらふらと揺れている。
 麻由は慌てて駆け寄ると、麻奈の持っていた本の半分を取り上げた。
「あたしも持ってあげるね」
「ありがとう」
 麻奈は驚いたような表情を見せたあと、微かに唇を弓なりにしならせた。普段から感情の起伏に乏しい妹であるため、こうした笑顔を浮かべること自体が珍しい。麻由は満足げに笑って返すと、やはりよろよろと廊下の左右を行ったり来たりしながら、一階の奥にある書斎へと歩いて行った。
 佐伯邸の書斎は、麻由が知っているだけでも十以上の数があった。それらのほとんどが一階の東側の廊下に面した部屋にあり、麻由はあまりこの場所へ来たことがない。最初に探索に来たとき、開けても開けても本ばかりで落胆したことが主立った原因だった。
「こっち」
 先導する麻奈について行った先には、他の部屋と何ら変わりのないドアがずらりと並んでいた。これら全てに複雑難解な呪文のような言葉が書かれた本がひしめき合っているのかと思うと、頭が痛くなってしまいそうだった。
 麻奈は一度本を廊下に下ろすと、部屋のドアを開けてその中へと入って行く。麻由も続いて中に入ると、鼻先にむっとしたカビの臭いが触れた気がした。
「くっさ〜い」
「麻由、それここに置いて」
 部屋の隅に重ねられている本の前で、麻奈が促してくる。麻由は危なっかしい足取りでその場所に行くと、空いている場所に抱えていた本の束を降ろした。
「ふぅ〜っ、本ってけっこう重いんだ」
 汗ばんだ顔を手で扇ぎながら、麻由は部屋の中をぐるりと見回した。室内の様子は、初めて見たときと全く変わっていない。本棚にはぎっちりと分厚い専門書のようものが並び、そこに入り切らない本は所狭しと床に積み上げられていた。
 やはり、こういう空気は肌に合わない。薄暗く、そして狭苦しく、あまり長くいると息が詰まりそうだった。
 だが、そんな麻由とは正反対に、麻奈は次に読む本を一冊一冊じっくりと選び出している。表情はどこかうきうきしているようにも見えた。
「また、大広間まで運ぶの?」
「うん」
「運ばなくても、ここで読んだほうがラクチンじゃない?」
「それだと一ヶ月くらいここから出なくなっちゃいそうだから」
 麻奈がさらりとした様子で答える。その冗談とも本気とも取れる言葉に、麻由は苦笑いするしかなかった。
 次の本を選び終えるのに時間がかかりそうだったので、麻由だけ先に書斎を出ることにした。廊下に出ると明るい光が視界いっぱいに広がり、思わず深呼吸をしてしまう。しかし、それでもまだ胸の奥に何かが詰まっているような感覚がしたため、一度庭のほうに出ることにした。
 厨房のほうに回って勝手口から外へ。頭上の太陽がまばゆい光で麻由の全身を包み込み、そこでようやく一息つくことができた。
 いったい、どうしてあんな暗い部屋に何時間もいることができるのか……。
 麻由には妹が何をどう楽しんでいるのかさっぱり分からなかった。
 しかも、書斎を出るときにかけられた言葉。
「暗いところには行かないほうがいいって」
「えっ? なにが?」
「悪いことが起こるかもしれない」
「な、何の話?」
「占い」
 要するに読んでいた本の占いでそう出たらしい。麻由はあまり信じていなかったが、薄暗い書斎で麻奈に低い声で言われると、さすがに身震いするものがあった。
 外は今日もいい天気で、ひとまず何をするでもなく庭を歩いた。こんな日はいっそ遠くにある街のほうまで行ってみたい気もするのだが、両親から家の外に出ないようきつく言われているためそれはできない。何とか庭までは許されているのだが、それ以上先に行くのは――つまり、森に入るのは固く禁止されていた。
「そろそろ行かないと、ありさ帰って来ちゃうかな」
 いまだ佐伯の居場所は分からないが、少なくとも麻奈に見つかる可能性はだいぶ低くなった。麻由は屋敷の中に戻ると、一直線に地下への階段を目指すことにした。
 地下の廊下へ降りたとき、ふわりと書斎で感じたのと同じ臭いが鼻腔を突いた。奥のほうから流れてくるカビの臭い。以前は気付かなかったが、よく見れば壁や天井に苔のようなものが生えていた。
 思わず肩が震える。昼間だというのに、地下は驚くほど冷え込んでいた。防寒具を着込んでもいいかと思うほどに吐く息が白い。
 麻由は自分の体を抱き締めながら、ゆっくりとした足取りで冷たい廊下を歩き出した。
 カツン、カツン、と靴音が響く。初めて来たときは気にならなかったのに、何故だか今日はそれが耳について仕方がない。廊下の反対側から誰かが近付いてきているような気がして、麻由は幾度となく足を止めた。
 ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込む。あれほど楽しみにしていた地下の探索が、不思議なくらい胸を沸かせてくれない。先に進みたいと思う反面、早く帰りたいという気持ちが心のどこかに芽生えていた。
 やがて廊下の幅が少しだけ広くなり、古びたドアの並ぶ通路にたどり着いた。昨日はここでありさに見つかってしまったが、今日はその心配をする必要はない。
 近くのドアのノブに手を伸ばすと、指先にひんやりとした感触が伝わってきた。
「…………………………………………………………………………」
 ぞわり、と全身の毛が逆立った。
 頭の上から足の指先まで、何かが滑り落ちたような気がした。
 もちろん、実際にそんなことがあったわけではない。麻由はただドアノブに触れただけだし、自分以外には誰もいない。ただの気のせい、としか考えられなかった。
「ありさが言ってたみたいに、お化けでもいるのかもね〜」
 わざと明るい声で言ってドアノブを右側に回す。しかし、ガチャッと金属的な音がするばかりで、ドアノブは半分も回らなかった。続いて左に回してみるが、やはり結果は同じ。鍵が掛かっているのは麻由にもすぐに分かった。
「なによ〜、これじゃあ入れないじゃない」
 頬を膨らませながら隣のドアに移る。だが、そこもしっかりと鍵が掛けられており、部屋の中に入るのは不可能だった。
 麻由はドアの前で腕を組むと、暫くの間ノブを見つめながら考え込んだ。鍵が掛かっている以上、開けるには鍵を見つけ出すしかない。しかし、それがどこにあるのか麻由にはさっぱり分からなかった。ありさか佐伯に聞けば分かるかもしれないが、それでは何の面白味もなくなってしまう。
 どうしたものかと悩んでいると、廊下の奥でドアが閉まったような音が聞こえた。
 麻由の視線が、闇の中に向けられる。表情は俄に緊張し、全身が石のように硬直した。
 ――あたしの他に誰かいる!
 ざわざわとしたものが肌を撫でつけ、耐え難い恐怖が胸の奥からこみ上げてきた。いったい誰がこの地下にいるのか。冷静に考えれば佐伯以外にあり得なかったのだが、このときの麻由にそんな冷静な思考力はなかった。
 やがて闇の中から姿を現したのは――麻由がよく知る老人の姿だった。
「佐伯の……おじちゃん?」
「お嬢様? 何故このようなところへ?」
 麻由の姿を見て、佐伯もひどく驚いたようだった。目を丸くして、ずいっと首を近づけてくる。その両手には、ワインのボトルが二、三本抱えられていた。
「ははあ、さては忍び込もうとしましたな? ありさから止められておったはずですが」
「え、えぇと……あはははっ!」
 ごまかそうと必死に笑顔を作るが、かえって不自然な表情になってしまう。
 佐伯は優しげな笑みを浮かべながら肩を揺らすと、麻由の頭を撫でて懐から幾つもの鍵が束ねられたホルダーを取り出した。
「特に何もない部屋ですよ。掃除もしておりませんし」
「おじちゃんが持ってたんだ」
「使うのは、この奥にあるワインの貯蔵庫の鍵だけですがのぉ」
 そう言いながら、佐伯は目の前のドアに鍵を射し込みくっと手首をひねった。
「おや、これじゃないな?」
 一度鍵を引き抜いて、別の鍵を差し込む。しかし、どうやらそれも違ったようで、佐伯はワインを床に置くとひとつひとつ鍵を確認し始めた。
 麻由の視線が、ドアの鍵穴からワインに落ちた……。
「なにこれ?」
「ワインという大人の飲み物です。旦那様はそれが非常にお好きなのですよ」
「ふ〜ん」
 ボトルを覗き込んでみると、黒っぽい液体がゆらゆらと揺れていた。美味しそうかどうか以前に、地下の廊下では色さえよく分からない。
 麻由はちらりと佐伯を見上げると、彼が鍵を探しているのをいいことにボトルの蓋に手をかけた。
 幸運か、そけとも不運か――おそらくは佐伯が味見をするために一度蓋を開けたものだったのだろう、ボトルの蓋は驚くほど簡単に外すことができた。
 ほのかに甘い香りが、麻由の鼻先をくすぐる。まだ飲んでもいないのに、何故だか奇妙な心地良さが体中に染み渡っていった。
「おお、これだ。お嬢様、開きました…………あっ!」
 佐伯が気付いたときにはもう遅く、麻由はぴちゃぴちゃと音を立てながらワインを飲み始めていた。すぐに取り上げたので飲んだ量は少量だが、それでも麻由の頬は既に赤い。
 佐伯は蓋を閉めると、小さな溜息をひとつ漏らした。
「お嬢様、大人の飲み物だと申し上げたはずですぞ」
「え〜、なんでこんな美味しいのが大人だけなの〜? もっと飲みたい〜」
 麻由がいつものように、佐伯の脚にしがみ付く。ズボンを握り締めて体を揺らすと、ワインを飲ませるよう駄々をこねた。
「こ、困ります、お嬢様。これを飲むにはまだ……」
「ね〜、お願い〜。おじちゃ〜ん」
「う、うむむむ……」
 子供ながらに、麻由は頼みごとをする方法を熟知していた。下から見上げながらの「お願い」に佐伯は弱い。
「仕方ありませんな。本当に少しだけですぞ」
 佐伯は諦めたように言うと、懐から小さめのワイングラスを取り出した。思わぬものが出てきて、麻由が驚いたように目を丸くする。佐伯にとってはワインの味を確認するとき常に持っているだけなのだが、麻由からしてみれば魔法でも使ったかのような現象に思えてならなかった。
「さあ、どうぞ」
 ワインを注いだグラスを、佐伯が麻由に差し出す。底のほうに赤い液体が溜まっている程度だが、麻由の目にはとても神秘的なもののように映った。
「わあっ、おいし〜い」
 グラスをくいっと傾けて、麻由は感動に満ちた声を上げた。甘いには甘いのだが、ジュースなどのそれとは全く違う。舌に広がるまろやかさはこれまで味わったことのない感覚で、嚥下すると同時に胸がカッと熱くなった。
「どうやら麻由お嬢様のお口には、ワインがよく合うようですな」
「うん、もっとちょうだい」
「いけません。これ以上は身体に障ります」
「え〜、じゃあ残りは?」
「これは……」
 右手に持ったボトルを見て、佐伯は困ったような顔を浮かべた。まだ中身はたっぷり残っているが、最初に麻由が瓶から直接口をつけて飲んでいるため夕食の席で使うわけにはいかない。
 どうするか悩んでいると、麻由が首をかしげながら訊いた。
「おじちゃんは飲まないの? もしかして嫌い?」
「私ですか? いえ、もちろん好きですが……」
「じゃあ一緒に飲もうよ〜。一本くらい黙ってたってパパにはバレないでしょ?」
「それは……まぁ……」
「ねっ、お願い。もうちょっとだけちょうだい?」
 再び、麻由が「お願い」をする。
 佐伯はかなり長い時間唸っていたが、やがてホッと息を吐いてうなずいた。
「二人だけの秘密ですぞ?」
「やった〜♪」
 グラスの底に、今度は先ほどよりも多くワインが注がれる。
 麻由はそれを受け取ると、ぺろりと舌なめずりして中を覗き込んだ。
「やれやれ。こんなことが知れたら大目玉じゃ」
 疲れたように言いながら、佐伯が瓶から直接ワインを飲む。どうせ近くには麻由しかいないのだし、礼儀作法はこの際考えないことにした。
 実のところ、佐伯は醍醐以上にワインが好きだった。やや出来の悪いワインなどはよく貯蔵庫で飲んでいたし、出来の良いものも味見と称してほんの少しだが口をつけることが多かった。
 さすがに今回のような飲み方をするのは初めてだったが、だからこそ今までにはない味わいがそこにあった。
「くはっ、こりゃあ美味い」
「おいしいよね〜」
「うむむ、癖になってしまいそうで危険じゃわい」
「あ〜、早く大人になりたいな〜」
「はっはっはっ、それは……ああっ、危ない!」
 佐伯が悲鳴を上げるのと同時に、麻由はふらふらと左右に揺れたあとぺしゃんと床に尻餅をついた。少し酔いが回ったのだろう、目がとろんとしている。
「あ、あれぇ? なにこれ? おもしろ〜い」
「面白くありません。さあ、早くお立ちになって……」
 いつものように優しく手を伸ばそうとして、佐伯はふと視線をやや下に落とした。
 尻餅をついた麻由の足の付け根、そこに白い布がちらちらと見え隠れしている。
 佐伯の体が、ワインとは別の理由で熱くなった。
「…………………………………………………………………………」
 ぐひり、と喉が鳴る。
 麻由のほっそりとした脚が、佐伯の足元まで伸びていた。
「おじちゃん?」
 佐伯の様子がいつもとは違うのに気付き、麻由が首をかしげながら立ち上がる。だが、そこに警戒の色はなかった。
「あ、ああ……失礼しました……」
「大丈夫? 顔が赤いよ?」
「いや、少し酒が回ったのでしょう。……じき、冷めます」
「ふ〜ん」
 気のない返事をしながら、麻由の視線は床に置いてある別のワインに注がれていた。
 そしてそんな麻由を、普段とは全く違う佐伯の目が見下ろしていた。
「…………………………………………………………………………」
 とても、ひどく、良くないものが囁く。
 佐伯の心の奥底に隠れていた衝動が、不意にその羽を広げ外側へと浮上してきていた。
 今、ありさはいない。
 今、醍醐はいない。
 今、アニマはいない。
 麻奈こそ屋敷にはいるが、彼女が自分から地下へ降りて来る可能性は極めて低い。
「…………………………………………………………………………」
 とても、ひどく、良くないものが、もう一度囁く。
 頭の片隅をよぎった光景に、佐伯はぶるりと体を震わせた。
「おじちゃん? 寒いの?」
「あ、ああ……少し冷えたのかもしれませんな」
「そう。じゃあ、上にあがろっか?」
「ええ……あぁ………………………………」
 次の瞬間、佐伯は自分が大きな過ちを犯すことを確認した。
「こちらの部屋の中は、ご覧にならなくてよろしいのですかな?」
「えっ? あ、そうだった! その中見に来たのに」
 軽い足取りで麻由がドアに近付く。
 そんな自分を佐伯が劣情に満ちた眼で見つめていることに、麻由は一片も気付くことができなかった。
「あっ、パパには秘密だからね」
「ええ」
「ママにもよ」
「ええ」
「それから、ありさと麻奈にも絶対の絶対の絶対に秘密だからね」
「ええ……秘密ですな……」
 佐伯の返事を聞いて、麻由は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
 そしてドアノブに手を伸ばし、あの冷たい感触を指先に覚える。
 ぐっとノブを掴むと、それをぐっと手のひらに力を込めた。


 ドアノブはゆっくりと右側に回った――。






「お待たせ、佐伯」
 埃とカビの臭いが充満した部屋で、あたしは明るい声で言った。
 薄汚れたベッドの上に寝ていた人影が、ゆっくりと首だけを向ける。
「お、おお……」
 しわがれた声。
 枯れた枝のような腕が、ほんの少しだけ浮くのが見えた。
「せ〜のっ!」
 つかつかとベッドに歩み寄って、何の前触れもなくジャンプする。
「げぉうっ!?」
 着地した先は佐伯のお腹。牛みたいな鳴き声が上がって、ベッドがぎしって軋んだ。
「さ〜てと、今日はどうしてあげよっか?」
 佐伯の腹に座り込んで、剥き出しの肉棒に目を落とす。あんまり小さいもんだから、あたしは鼻を鳴らしながら竿の部分を握り締めた。
「ふふっ、びくびくしてる」
「お、じょ……さま……」
 あれから数年――。
 あたしの悪夢は、まだ終わっていない。
 ここに来れば、いつでも夢の続きを見ることができる。
 そしてあたしは、それを自らの意思で受け入れているのだった。
「さあ、今日も飲ませてもらうわよ、あんたの……白いワインをね……」
 あたしの手が、佐伯の肉棒を扱き始める。
 佐伯は気持ち良さそうな声を漏らすと、もっと快楽を求めるように腰を浮かしてきた。
 とてもいい反応。
 そうでないと、あたしのほうが楽しめない。
「ふふっ、まだよ。まだ出しちゃダメだからね?」
 反対の手で、肉棒の先端を優しく撫でる。
 佐伯は本当に心から気持ち良さそうな声を漏らしたけど、快楽を与えるのはそこでおしまいだった。
 あたしは人差し指をそっと尿道の入り口に添えると、ぐっと爪を内部に抉り込ませた。
「ぎゃわあぁぁーーーーーーーーーーっ!!!」
 佐伯の口から、今までとは正反対の絶叫が上がる。
 でも、それがあたしの求めていた声で、求めていた音楽で、求めていた刺激だった。
 苦痛に暴れまわる佐伯を強引に押さえ付けながら、あたしは快楽と苦痛を与え続ける。佐伯の欲望が破裂するそのときまで、あたしはこれをやめないだろう。この夢を見続けるだろう。
 そう、これは夢。
 あたしと佐伯が一緒に見る、ずっと昔から続いてる夢。
 終わりのときはまだ分からないし、もしかすると永遠に終わりなんてこないのかもしれない。
 でも、それならそれでいい。
 あの鉄扉が導いてくれた夢を、あたしはただ愉しむだけだから。



 今も昔も、悪夢はこの部屋の中に広がっている……。



fin
あとがき

第二回マイブラ人気投票のお礼の麻由SSです。
……だ、ダメっすか?
ハッピーエンドのほうがいいんじゃないかと思いつつ、麻由の物語を書くとしてなにを書くか考えたときパッと浮かんだのがこれだったので(汗)。
上田ディレクターと色々意見を交換した上での公開となりましたが、未だに不安がいっぱいだったりします。
かなり急いで書いたので文章とか何かとアレですが、如何でしたでしょうか。
ゲーム中でもあまり語られなかった麻由の過去、その一端を楽しんでいただければ幸いです。
ちなみに、挿絵は椎咲氏が時間を割いて描いてくれました。感謝。
それにても、佐伯って元々はこういう人だったのか。
書いてみないと分からないことは、まだまだ多くあるなぁ(笑)。

2004/11/19 和泉万夜


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